MUKWANOホームにやってきた!! | 19:24 |
ウガンダにやって来た翌日。首都カンパラからMUKWANOホームまで、車での長い長い道のり。
まだ現実味がなく、「ムクワノホーム」「サマニャノオカ」「オオゼイノコドモタチ」
依然として漠然と単語だけが自分の中にある状態だった。
「サマニャの丘が見えてきたよ!」と聞いたとき、思わず身を乗り出した。
丘(というより山?)の上に建つコンクリートの建物が見えたとき、急に気持ちが高まった。そして、遠く山際に緑色と紫色の沢山の小さな点々が目に入った。なんだろう??人?目をこらすと子どもたちであることに気づいた。
ホームが目前に迫ったとき、大勢の子どもたちが私たちの車目掛け走ってやってきた。車が停車しドアを開けたとたん、大きな大きな歌い声が聞こえた。
私は瞬時に圧倒された。車から地面に降り立つことなく、歓迎の歌を歌い続けている子どもたちが私を担いでくれた。
「ひょえ〜。このまま運ばれるの??」瞬時に引き込まれ、なぜかじわっと胸と目頭が熱くなった。ホームまでの距離は結構あった。数名の子どもたちに担がれ運ばれていた私は徐々にずり落ちていき、「重くてごめん。もういいよ〜。」とつぶやいたけれど、子どもたちは「あ〜こっちが落ちてきて大変。」というようなかんじで、笑いながら何度も何度も私を抱え直し、ホームまで無事に届けてくれた。
単語だけの想像の世界から、突然現実となり始めた。
教室にて設けられた席に着席し、私たちメンバーへの歓迎会がすぐに始まった。
右サイドに私たち、左サイドにホームの先生や関係者たちの方々、真ん中に太鼓などの楽器。
楽器が鳴り出し、背の小さな子から大きな子へときれいに整列して、みんな軽快にステップを踏んでいた。沢山の歌を、みんなの気持ちと力いっぱいの声で歌ってくれた。私はただただ引き込まれるだけだった。
「私たちのサマニャに来てくれてうれしい!お会いできてすごくうれしい!心待ちにしていました。みなさん気を使わず、リラックスしてたのしい時を過ごしましょう!」というような内容の歌だったと思う。先生や関係者たちの方々からの感謝の意を込めたご挨拶も沢山いただいた。
しばらく歓迎の歌が続き、次にエイズに関する劇と歌が始まった。
子どもの劇というと童話や昔話を題材としたものという先入観があったし、英語だったので始めはよくわからなかったけれど、エイズを題材とした劇であることが途中からわかった。内容は、みんなで楽しく学校で学んでいたのだけれども、ある一人の生徒の女の子が母親の反対を押し切って町に行き、男性と出会ってエイズになってしまい、発病して学校に来れなくなってしまい、みんなが悲しむというもの。
続いて歌も始まり、さっきまでとびきりの笑顔だった子どもたちの表情が一変した。ある子どもは途中で歌えなくなってしまい、席についてしまった。メインで歌っている子どもやその他複数人の子どもたちは涙を浮かべていた。みんな悲しそうな顔で一生懸命歌っていた。歌の内容は、エイズで両親を亡くしてしまい、欲しかった愛情も十分に受けることができず、私たちは一人ぼっちになってしまった。エイズが全てを奪ってしまった。エイズは絶対にだめなものといったもの。
ここにいる子どもたちはエイズで両親を亡くした子どもたちだったことに改めて気づいた。
私たちメンバーからも1曲歌をプレゼントすることになった。
「大きな栗の木下で」を。即興だったので、振りつけが曖昧だった私はかなり焦ってしまったけれど、みんなでなんとか乗り切った。子どもたちも笑ってくれてほっとした。びっくりしたのが、そのとき聞いただけなのに歌を覚えてしまっている子が沢山いたこと!!
会の最後は、腰に藁をつけた子どもたちが歌いながら腰振りダンス?を踊ってくれた。私たちがあの腰振りを習得するまでにどれくらいを要するのだろう、というほど細かくリズムが刻まれたものだったのでびっくりしてしまった。メンバーも誘われて一緒に踊っていたけれど、全然違うものだった(笑)。
そもそも生まれ持ったリズム感が全然違うことを実感した。
とにかく圧倒されっぱなしの歓迎会は2時間半ぐらい続いた。
彼らにとって伝えるということは歌にのせることなのだということがわかった。
この会があって、子どもたちともすぐに打ち解けることができた。
ほんの短い時間で、笑顔でストレートな気持ちを伝えてきてくれる子どもたちをとても愛しく思った。人とのコミュニケーションや、気持ちを伝えることってこんなふうだったなあと改めて思い返した。
横山記代子
まだ現実味がなく、「ムクワノホーム」「サマニャノオカ」「オオゼイノコドモタチ」
依然として漠然と単語だけが自分の中にある状態だった。
「サマニャの丘が見えてきたよ!」と聞いたとき、思わず身を乗り出した。
丘(というより山?)の上に建つコンクリートの建物が見えたとき、急に気持ちが高まった。そして、遠く山際に緑色と紫色の沢山の小さな点々が目に入った。なんだろう??人?目をこらすと子どもたちであることに気づいた。
ホームが目前に迫ったとき、大勢の子どもたちが私たちの車目掛け走ってやってきた。車が停車しドアを開けたとたん、大きな大きな歌い声が聞こえた。
私は瞬時に圧倒された。車から地面に降り立つことなく、歓迎の歌を歌い続けている子どもたちが私を担いでくれた。
「ひょえ〜。このまま運ばれるの??」瞬時に引き込まれ、なぜかじわっと胸と目頭が熱くなった。ホームまでの距離は結構あった。数名の子どもたちに担がれ運ばれていた私は徐々にずり落ちていき、「重くてごめん。もういいよ〜。」とつぶやいたけれど、子どもたちは「あ〜こっちが落ちてきて大変。」というようなかんじで、笑いながら何度も何度も私を抱え直し、ホームまで無事に届けてくれた。
単語だけの想像の世界から、突然現実となり始めた。
教室にて設けられた席に着席し、私たちメンバーへの歓迎会がすぐに始まった。
右サイドに私たち、左サイドにホームの先生や関係者たちの方々、真ん中に太鼓などの楽器。
楽器が鳴り出し、背の小さな子から大きな子へときれいに整列して、みんな軽快にステップを踏んでいた。沢山の歌を、みんなの気持ちと力いっぱいの声で歌ってくれた。私はただただ引き込まれるだけだった。
「私たちのサマニャに来てくれてうれしい!お会いできてすごくうれしい!心待ちにしていました。みなさん気を使わず、リラックスしてたのしい時を過ごしましょう!」というような内容の歌だったと思う。先生や関係者たちの方々からの感謝の意を込めたご挨拶も沢山いただいた。
しばらく歓迎の歌が続き、次にエイズに関する劇と歌が始まった。
子どもの劇というと童話や昔話を題材としたものという先入観があったし、英語だったので始めはよくわからなかったけれど、エイズを題材とした劇であることが途中からわかった。内容は、みんなで楽しく学校で学んでいたのだけれども、ある一人の生徒の女の子が母親の反対を押し切って町に行き、男性と出会ってエイズになってしまい、発病して学校に来れなくなってしまい、みんなが悲しむというもの。
続いて歌も始まり、さっきまでとびきりの笑顔だった子どもたちの表情が一変した。ある子どもは途中で歌えなくなってしまい、席についてしまった。メインで歌っている子どもやその他複数人の子どもたちは涙を浮かべていた。みんな悲しそうな顔で一生懸命歌っていた。歌の内容は、エイズで両親を亡くしてしまい、欲しかった愛情も十分に受けることができず、私たちは一人ぼっちになってしまった。エイズが全てを奪ってしまった。エイズは絶対にだめなものといったもの。
ここにいる子どもたちはエイズで両親を亡くした子どもたちだったことに改めて気づいた。
私たちメンバーからも1曲歌をプレゼントすることになった。
「大きな栗の木下で」を。即興だったので、振りつけが曖昧だった私はかなり焦ってしまったけれど、みんなでなんとか乗り切った。子どもたちも笑ってくれてほっとした。びっくりしたのが、そのとき聞いただけなのに歌を覚えてしまっている子が沢山いたこと!!
会の最後は、腰に藁をつけた子どもたちが歌いながら腰振りダンス?を踊ってくれた。私たちがあの腰振りを習得するまでにどれくらいを要するのだろう、というほど細かくリズムが刻まれたものだったのでびっくりしてしまった。メンバーも誘われて一緒に踊っていたけれど、全然違うものだった(笑)。
そもそも生まれ持ったリズム感が全然違うことを実感した。
とにかく圧倒されっぱなしの歓迎会は2時間半ぐらい続いた。
彼らにとって伝えるということは歌にのせることなのだということがわかった。
この会があって、子どもたちともすぐに打ち解けることができた。
ほんの短い時間で、笑顔でストレートな気持ちを伝えてきてくれる子どもたちをとても愛しく思った。人とのコミュニケーションや、気持ちを伝えることってこんなふうだったなあと改めて思い返した。
横山記代子
| kiri | - | - | posted by mukwanojapan